看取りケア、終末期ケア、ターミナルケアの取扱説明書は、ケアイノベーション協会が執筆しています。
日本経済と企業経営の変遷──バブルの栄光から「失われた十年」、そして再生へ
実務者研修教員講習会
1980年代、日本経済は輸出主導の景気とバブル景気に沸き、企業経営も「右肩上がり」の成長と繁栄を謳歌しました。あの「黄金の時代」は、ほんの14〜15年前のことにすぎません。当時、「日本経済は世界のけん引役になる」「日本に日没なし」といった見方が、日本的経営の成功を背景に国内外で盛んに語られていました。
その象徴が、エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』であり、1989年にはアメリカのCBSが20代の若者を対象に行った世論調査で「21世紀には日本がアメリカを経済的に追い越す」とする回答が多数を占めたことにも表れています。
しかし、その楽観ムードに一石を投じたのが、『ロンドン・エコノミスト』誌のビル・エモットでした。彼は1989年に出版した『日はまた沈む』の中で、日本経済の将来と社会構造の行き詰まりを警告しました。国内の一部識者はこの見立てに共感したものの、当時は主流の意見にはなりませんでした。
ところが、バブル経済の崩壊は時間をおかずして現実のものとなり、1990年代初頭には「平成不況」が始まります。不況は長期化し、やがて「失われた十年」と呼ばれるまでに至りました。企業では大規模なリストラが進み、日本的経営の限界が露呈しました。とくに、日本経済を長年支えた銀行を中心とする金融システムは、バブル崩壊により深刻な機能不全に陥り、国民に衝撃を与えました。
長く続いた不況と構造改革の波の中、日本経済にもようやく回復の兆しが見えはじめたのは2000年代初頭のことです。特に、中国が2001年にWTOに加盟し、驚異的な経済成長を遂げたことで、日本にとっての最大の貿易相手国となりました。この「中国特需」により、日本の鉄鋼業や造船業など、長く構造不況に苦しんできた産業がにわかに活気を取り戻し始めたのです。
ただし、日本の景気回復は中国需要だけによるものではありません。アメリカや欧州、そして東南アジア諸国の回復と、それに伴う輸出や現地生産の拡大、さらに国内での企業改革や金融システムの再建といった要因が複合的に作用した結果といえます。
しかし、ここで一つ立ち止まって考えねばならないのは、なぜ平成不況はこれほど長引き、「失われた十年」とまで呼ばれるようになったのかということです。多くの人が、その急激な変化のスピードに翻弄され、変化の本質を見失っていたのです。
その背景には、1980年代から90年代初頭にかけての成功に対する過信と、グローバル化と情報革命という世界的な構造変化への対応力の欠如がありました。この「グローバリゼーション」は、単なる貿易や海外進出といった国際化とは異なり、ヒト・モノ・カネ・情報が瞬時に国境を超える新たな次元の変化でした。その結果、これまで国境と政策に守られていた多くの産業や制度が機能不全に陥ったのです。
特に問題だったのは、日本の銀行がバブル期の金余りに乗じて過剰融資を行い、不良債権を大量に抱え込んだことです。加えて、アメリカやイギリスが1980年代に「ビッグバン」と呼ばれる金融改革を進めた一方で、日本はこの大きな流れに乗り遅れ、後手に回って金融危機を悪化させました。
さらに、建設、農業、流通、医薬品といった内需依存型産業も、外資や外国製品との直接競争が少なかったため、グローバル化に対応できずに取り残されていきました。
グローバル化は冷戦終結と情報革命によって加速しましたが、日本の為政者や経営者の多くは、情報革命の本質的影響、すなわちグローバルな競争ルールや金融システムへの劇的変化を正しく理解していなかったといえます。
特に銀行は、「護送船団方式」による長年の保護政策の中で競争力を失い、バブル崩壊後も再編が進まず、世界の金融再編の流れに取り残されました。グローバル競争は、グローバル調達、物流、コスト競争など、これまでとは次元の異なる戦略的対応を必要としましたが、日本企業の多くは対応が遅れ、自動車産業など一部を除いて後手に回ったのです。
この対応の遅れが明らかになったとき、日本の経営者たちの間では焦燥感が広がり、結果として戦略なき安易なリストラやアメリカ型経営の表面的模倣に走るケースが多く見られました。株主重視の企業統治や能力主義の導入は、一面的な模倣にとどまり、明確なビジョンや戦略に基づくものではありませんでした。
この背景には、1960年代から90年代初頭までの成功体験にとらわれ、急激な変化に創造的に対処する発想を欠いた経営者層の存在があります。彼らは戦後の再建期を支えた先人たちの後継者として、一定の成果を収めたものの、その成功体験に依存した結果、新たな時代のパラダイムに適応する力を発揮できませんでした。
こうして見てくると、「失われた十年」は、政府の政策対応の迷走だけでなく、日本社会全体の変化への適応力の欠如、特に企業リーダーの戦略構築能力の不足が大きな要因だったことが分かります。
今、日本経済と企業が回復の兆しを見せる中で、重要なのは、単なる景気の回復に安堵するのではなく、「失われた十年」の教訓を総括し、今後のグローバル時代に対応できる戦略を構築することです。
まず必要なのは、過去の成功にしがみつかず、創造的分野に経営資源を集中させる姿勢です。かつて日本企業は同質的競争に陥りやすく、半導体業界のように競争力を削がれる例が散見されました。これからは、他社が模倣できない領域で勝負する戦略的能力が求められます。
このような能力は、ジャック・ウェルチのようなカリスマ経営者にしか持てないものではありません。むしろ、日本的な「集団的知性」を活かし、ボトムアップで戦略を生み出す企業文化の中からこそ育まれるべきものです。
また、企業統治についても、株主だけを重視するのではなく、顧客や従業員の満足とも調和した形での「株主満足」を目指すべきです。能力主義についても、目先の成果だけではなく、チーム貢献や長期的視点での潜在能力を評価する視点が不可欠です。
「失われた十年」の経験を活かしつつ、グローバル時代にふさわしい新たな日本型経営を、創造的に再構築することが、今まさに求められています。
平成不況はなぜかくも長引いたのか――「失われた十年」の真相
実務者研修教員講習会
「失われた十年」を語るにあたり、まず問うべきは、なぜ平成不況がこれほどまでに長期化したのか、という根本的な問題である。
昭和から平成に改元された1989年当時、日本はまだバブル景気の絶頂にあった。しかし、わずか2年後の1991年には景気に陰りが見え始め、1992年にはバブル経済の崩壊が決定的となる。以降、日本経済は深い不況の泥沼へと突入し、10年以上もの長期低迷に見舞われた。このように長く深刻な不況は、戦後では初めての経験であり、昭和恐慌以来の出来事であった。
構造的な変化に乗り遅れた日本経済
なぜこれほど長引いたのか。端的に言えば、世界がグローバル化と構造転換に進むなか、日本の経済運営はその変化に対応しきれず、必要な改革が後手に回ったためである。
もちろん、バブル崩壊の後遺症も無視はできない。だが、それだけを原因とするには不十分だ。21世紀初頭の世界は「大競争の時代」に突入しており、そこでは国の真の経済力――すなわち財政運営の健全性、金融システムの効率性、国際競争に晒されてこなかった産業分野の体質など――があからさまに問われる。
バブル景気や高度成長の陰に隠れていた日本の構造的な弱点、すなわち非効率な産業構造、高コスト体質、金融システムの脆弱性が、この時代の競争の荒波のなかで露呈した。
特に顕著だったのは、日本の賃金を含む「高コスト構造」である。気づけば、日本はドイツと並ぶ世界有数の高賃金国となっていた。こうした賃金水準は、バブル期の右肩上がりの成長下では吸収可能だったが、景気が停滞し、企業がリストラを進める中で急速に問題化する。
2004年には、日本の平均世帯年収は440万円にまで下がり、名目額で年間100万円以上の減少と推定される。これはデフレによる物価下落、非正規雇用の増加、そして企業のコスト削減努力の帰結でもあった。
国内市場に温存された非競争領域
日本経済は、自動車・電子・鉄鋼といった輸出産業が牽引してきたが、残りの国内志向の産業分野は、長らく国際競争とは無縁であり、高コスト体質が温存されてきた。グローバル競争の進展は、規制緩和と外資の参入を通じて、こうした非効率な領域の弱点を露わにした。
さらに輸出主導型の産業でさえ、為替変動や海外需要の変化に対応するために、海外生産や投資へと舵を切らざるを得なくなり、国内における雇用や生産の牽引力は次第に失われていった。
「国家の競争力」が問われる時代へ
このグローバル競争は、単なる企業や産業の競争力を超え、国家レベルの競争力――すなわち、マイケル・ポーター教授のいう「国の競争優位」が問われる時代をもたらした。
国家の競争力とは、中央政府や地方自治体の財政運営、公的企業や特殊法人の効率性など、公的部門全体のパフォーマンスを含む広範な概念である。したがって、これらに抜本的な改革を加えない限り、民間の努力だけでは国全体の競争力は向上しえない。
構造改革が不可避であることは明らかであったが、それは痛みを伴い、時間のかかるものである。この意味において、平成不況とは「構造改革不況」であったとも言える。
政策判断の誤りと金融危機の深層
しかしながら、平成不況が長引いた理由を構造改革の遅れだけに求めるのは片手落ちである。より本質的な問題は、不況が始まった当初の政府・政策当局による重大な判断ミスにあった。
当時の政策当局は、世界経済が構造的な転換期にあることを見誤り、従来通りの景気循環論に基づいて対応した。不況→生産調整→需給バランスの回復→景気回復という従来型のパターンに固執し、構造的な対応を怠ったのである。
このため、財政出動や金利引き下げといった需要刺激策に過度の期待を寄せ、構造改革に即座に着手すべきタイミングを逸した。この政策判断の誤りが、不況の長期化に拍車をかけたことは否定できない。
1995年前後には、官民ともに「景気は回復する」との楽観的な空気が支配しており、これが判断の誤りに拍車をかけた。筆者は、当時の経済企画庁長官が「来年の桜が咲く頃には景気は必ず回復する」と断言しながら、実際にはまったくその兆しが見えず、テレビ番組で苦しい弁明をしていた様子を今でも鮮明に記憶している。
金融システムの破綻と「失われた信認」
さらに、平成不況を深刻化させたもう一つの要因が、金融システムの実質的な破綻と、それに伴う信用不安である。
橋本内閣が導入した「日本版ビッグバン」は、金融の自由化とグローバル化を目指すもので、理論的には正しい方向であった。欧米諸国が1980年代に成し遂げた金融改革に倣い、日本もよりダイナミックな金融システムへと転換を図るべきだった。
しかし、日本の銀行は長年にわたり大蔵省主導の「護送船団方式」の保護の下にあったため、環境変化に適応する経営能力が十分に育っていなかった。ビッグバンの導入は、そうした準備が整わないまま一挙に断行された。その結果、銀行は突如として競争の荒波に投げ出され、金融システム全体が混乱に陥った。
とりわけ、政府の主導で設立された日本長期信用銀行(長銀)や日本債券信用銀行(日債銀)といった政策金融機関までもが相次いで破綻する事態に至った。彼らにとって、突然「市場と競争で勝負せよ」と命じられることは、到底現実的ではなかった。
後年、橋本元首相が「ビッグバンでこれほどの混乱が起きるとは思わなかった」と述懐したことは、この改革がいかに準備不足のまま導入されたかを象徴している。
結語:改革の遅れが招いた「失われた十年」
こうして振り返ると、平成不況とは単なる景気の低迷ではなく、時代の大きな構造転換と、それに対応しきれなかった日本経済・社会の「遅れ」がもたらした複合的な危機であった。
政策判断の誤り、構造改革の遅延、そして金融システムの不全。これらが絡み合い、平成の10年間を「失われた十年」と呼ばれるほどの経済的停滞へと導いたのである。
この歴史を他山の石としなければ、同じ過ちを再び繰り返すことになるだろう。
看取りケア
ついに待ち望んでいた日がやってきた
3月13日の天候は晴れ、気温14度。じっと座って観戦するにはちょっと肌寒いが、声を上げて応援するには心地よいコンデイションだ。風もほとんどなく、爽やかな春の陽射しにビッチの芝生が鮮かに映える。
2004年Jリーグ・デイビジョンー、フアーストステージ第一節。この日、味の素スタジアムに集まった観衆は3万5880人。スタンドを見渡すと、オレンジの新潟サポーターと、青と赤の東京サポーターの数は同じくらいに見える。どちらがホームで、どちらがアウェーだかわからない。
それもそのはず。この日はバス60台や新幹線などを使って、ホームタウン新潟から約1万5000人のサポーターがやって来たという。もちろん、他の地域から応援に駆けつけたファンもいるだろう。午後3時30分予定のキックオフにはまだだいぶ時間があるのに、オレンジ色の大観衆は、声を上げたり歌を唄ったりして、グループごとに楽しそうに盛り上がっている。はちきれそうな期待に胸を躍らせ、どの顔も輝いて見える。
みんなこの日が来るのをずっと待ってきたのだろう。ついに待ち望んでいた日がやってきた。
しかし、夢がかなった喜びに浸っていられるのは、あとわずかな時間だけだ。キックオフの笛とともに、新しい現実が始まる。ひとつのプレー、ひとつのゴール、ひと試合ごとの勝ち負けに、一喜一憂しなければならない厳しい戦いの日々がスタートする。
そんなことはわかっている。昇格を決めた日から始まったお祭りは、キックオフの笛とともに終わりを告げる。だからこそ、アルビレツクス新潟のサポーターたちは、残り少なくなつた幸福な時間を存分に満喫する。
「試合前に、1年間よろしくお願いしますということを示すために挨拶に行ったのですが、サポーターたちの声援を聞いて背筋がゾクゾクッとするような印象を持ちました。遠路はるばる、オレンジのものを身にまとって、ホームと変わらないくらいのフアンが来てくれたことに心から感謝します」監督の反町康治が心を打ち震わせたのは、サポーターたちの熱い気持ちが伝わったから。これまでよりもはるかにレベルの高いJlのステージに挑戦するのは、なにもクラブだけではない。サポーターたちの心は、いつでもどこでもアルビレックスとともにある。遠いアウェーでの過酷な戦いにも、彼らはきつと駆けつけるだろう。そしてともに戦うだろう。これまでだつて、そうだつた。
新潟サポーターの知名度はすでに全国区だ。約4万2000人収容の新潟スタジアムをオレンジ一色に染め上げての応援風景は、テレビでさんざんお目にかかっている。昨シーズンはJ2なのに、ホームでの年間入場者数( 66万7447人)と1試合平均観客数(3万339人)のJリーグ新記録を打ち立てた。サポーターの後押しがなかったら、ここまで来ることはできなかっただろう。
この素晴らしいサポーターがついているならば、J1がどんなにハイレベルでも、恐れる必要などまったくない。サポーターヘの挨拶で、反町の新たなる戦いへ臨む準備は、これですっかり整った。